稚内では、百万本のバラを日本で最初に歌った、ニーナさんに会うことが出来ました。
また、お話しを聞いて、ブログにまとめることも出来ました。
自分としては、十分以上かなと思っています。
快晴の日に、礼文島に行きました。
自転車の乗るだけ乗って、これも満足。
稚内には、8日間いました。
Tさんにお世話になり、楽しく過ごすことが出来ました。
猿払村に来ました。
昔、村では、謎の多い、大きな遭難事故がありました。
少し調べてみました。
※ ※ ※ ※
海岸で、コンブを拾っている人がいた。
昨日の嵐で、コンブがちぎれて、浜に寄ってきた。
道具を使っていない。 手で獲っている。 ライフジャケットを付けて、波との戦い。
※ 別の場所で、干しているのも見た。
礼文島で見たコンブと似ていて、長くなかった。
あっちこっちで、サケ釣りが始まっていた。 朝は分からないが、昼間は釣れてる様子はない。
猿払(さるふつ)公園に来た。 猿払村の中心街に近い。
ずっと向こうは、浜頓別、雄武、紋別、そして網走。
いろんな碑がある。
ホタテ化石群、とある。 初めて見る。
確かにホタテ。 4000万年前の古いものだから、貝塚とは、関係ない。
松浦武四郎が来ている。 幕末に3回。
3回目は、1858年とある。 何月かは、書いてない。
※ この年の、5月の初めに、根室を出発。 端午の節句の時、羅臼。 (月は、旧暦で)
その後、知床半島をまわって、網走、紋別と、北上している。
ここに来たのは、5月末か、6月の初めでしょうか。
(5月23日に湧別、と分かったので)
リイシリ岳が見えたと、中頃にある。
魚の名前の「チライ」は、イトウのこと。
※ イトウが川を登る頃、フクジュソウが咲く。
それで、フクジュソウを「チライアパッポ」と云う。 アパッポ は、花。
「釣りキチ三平」の漫画で知ったんだったかな。
慰霊碑だ。 インディギルカ号とある。
昭和14年12月12日、未明。
この地の沖で、ソ連の船が、浅瀬で横転。
横倒しになった船の上に、人々は、よじ登った。
※ 12月だから、日の出は、6時40分頃。 薄明るくなるのは、6時過ぎ。
Wikipedia 他、多くの記事が未明とあるが、午前5時頃ではなく、深夜に近い、午前1時半頃。
時刻が載ってる記事がある。 情報の出どころは、「北の事件簿2 合田一道+一道塾」のよう。
船の上で助けを待つが、地元の人の小船では波が大きく、近づけない。
極寒の吹雪の中、人々は助けを待つ。
夜が明け、も一度、夜を過ごして、やっと救助される。
※ まる1日以上、船の上にいる。 どんな工夫で寒さを乗り切ったか、分からない。
船の上の人の数は、大きな波が来るたびに、減っていった。
寒さでも、死んでいく。
助かったのは、429名。 みんな凍傷。
そして、700名以上が、亡くなった。
慰霊碑の周りに咲いてた花。
※ 事故については、後ろの方で、再度。
少し向こうは、浜鬼志別という地域。
市街地を通り過ぎたら、灯台がある。 灯台の沖、1500㍍が、座礁地点。
公園内の施設。
パークゴルフ場。
道の駅の駐車場。 全てが、広い。 お店も、お風呂も、何でもある。
戻って、再び、インディギルカ遭難事故について。
インディギルカ号は、オホーツク海北部のマガダンから、ウラジオストクを目指していた。
途中、宗谷海峡を通って。
※ 余計な話 マガダンの左に、赤い○がある。
その町の名前は、オホーツク。
オホーツク海のオホーツクは、この町の名前から。
宗谷岬に近づいた時、灯台が見えた。
インディギルカ号の操縦士は、二丈岩の灯台が見えたと思った。
ところが、実際は、宗谷岬の灯台だった。
二丈岩だと思っているから、灯台の南に、進んでいった。
※ 昔は、ナビが無い。 当たり前だけど。
宗谷岬に近づいた時は、海は大シケになっていた。
これは、灯台を間違った要因になっている。
1500㍍程沖にある、トド岩で座礁。 船は、横転。
その後、陸から、800㍍の地点まで、波に押されてくる。
※ この日の海は、真っ暗。 雪が降ってるし、月夜でない。
道の駅の建物の2階に、資料館があった。
インディギルカ号の模型。 長さ80㍍の貨物船。
※ れぶんに行く時乗ったフェリーは、長さ95㍍。 あれより、15㍍短い。
この船に、1100人以上が乗っていた。
正確な人数は、船長も分からない。 誰も分からない。 不思議。
上の船に、小さなボートが2つ見える。
暗いうちに、1つのボートに10人が乗って、陸(おか)に向かった。
陸地に近づくと、波は、いっそう高くなる。
5人は、船から落ちる。 5人だけ、たどり着く。
民家に助けを求める。
電話はないから、そこの人は、警察に走る。
村中に知れ渡り、大騒ぎとなる。
そうしているうちに、夜は明けてきた。
村の小さな船では、助けに行けない。
試したが、失敗する。 嵐は止まない。
稚内から大きな船が来ることになったが、嵐で出港できない。
出港出来たのは、13日の午前3時。
ここ(浜鬼志別)に着いたのは、午前7時。
来たのは、樺太丸、宗水丸、山陽丸、の3隻。 ※ 樺太丸は、この写真でいいよう。(昭和10年建造なので)
座礁してから、29時間は経っている。
助かった人は、寒さをどうやって凌(しの)いだのか、それが分からない。
驚く。
下の写真。
船の上に、人が見える。 子どもや女の人は、真ん中かな。
大きな波が来たら、そのたびに、何人か流された。
救助の船に乗り移るのは、大変だったよう。
命綱をつかって。
多くの遺体は、浜に流れ着く。
救助船は、一度引き返しているんですね。 再度出るのが、13日の午前3時。
「ポロポロと」とある。 海のこっちから、村人は見ている。 励ましながら。
船長は、船を去る時、中には誰もいないと言った。
次の日の14日に、3人が見つかった。
船を切断したら、さらに、25人が生きていた。
この船長、どうも分からない。
「いるかもしれないから、頼む」とでも言わなければならない。
乗ってる人の命を、軽く見ている。
理由がきっとある。
たくさんの子どもたちがいる。 ほっとしているでしょうね。
※ この時から、73年経っている。
10歳だった子は、83歳。 まだ、生きている人がいますね。
助けた船は、稚内にその日のうちに戻ってるので、稚内のどこかでの撮影でしょうか。
足の包帯は、凍傷。 助かったことだけで、十分満足しているでしょうね。
助かった人達は、その年のうちに、小樽から戻ったそうです。
この写真は、小樽でのもの。
船に乗っていた人達は、何の目的で乗っていたかが、分からない。
船長は言わない。
カムチャッカから、漁業を終えて、引き揚げる途中とだけは、言ったが。
429名助かるが、誰も言わない。 (※ 亡くなった人は、700名以上)
命を助けてもらっても、言わない、言えない。
※ 1991年に、歴史学者の原暉之と云う人が、1つの説を発表した。
乗員の多くが、コルィマ鉱山などの、シベリア地方に点在していた強制収容所からの、送還者。
インディギルカ号は、政治犯および家族の護送船であった。
もしかしたら、この説は、本当かも知れない。
事故当時、ソ連は、遭難者に冷たかった。 遺体は、引き取らないと言ってきた。
船長は、船体の中を心配しなかったように、乗客に淡白だった。
見た目、やせた人が多かったと云う。
何か、事情のある人たちが乗っていたようだ。
※ このようにソ連の船を助けても、昭和20年には、樺太から戻る船が留萌沖でソ連の潜水艦に撃沈された。
3隻も。 たくさんの人が死んだ。 8月22日のこと。
※ 昭和20年の8月8日に、ソ連は日本に宣戦布告している。
戦争になったら、何でもありになってしまった。
樺太の南半分は日本の領土で、そこに、ソ連兵が攻めてきた。
日本兵との戦いになる。 一般の人達も、犠牲になる。
終戦の15日を過ぎても、国からの指示が、戦ってる日本軍に届かないから、そのまま戦い続ける。
22日に停戦協定が結ばれるが、それまで続いた。
正岡郵便局で9名が自決したのは、2日前の、20日だった。
浜鬼志別の人達は、優しかった。
救助に全面協力し、1971年には慰霊碑も建てた。
【今日の歌】 今日からまた、歌を載せることに。
※ 歌詞の中に、「カンナの花」が出てきます。 真っ赤な花です。
燃えるような赤。 何をイメージしているのでしょう。
【道の駅】 さるふつ公園
【明日の予定】 この近く 沼がある。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で17位です。
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また、お話しを聞いて、ブログにまとめることも出来ました。
自分としては、十分以上かなと思っています。
快晴の日に、礼文島に行きました。
自転車の乗るだけ乗って、これも満足。
稚内には、8日間いました。
Tさんにお世話になり、楽しく過ごすことが出来ました。
猿払村に来ました。
昔、村では、謎の多い、大きな遭難事故がありました。
少し調べてみました。
※ ※ ※ ※
海岸で、コンブを拾っている人がいた。
昨日の嵐で、コンブがちぎれて、浜に寄ってきた。

道具を使っていない。 手で獲っている。 ライフジャケットを付けて、波との戦い。

※ 別の場所で、干しているのも見た。
礼文島で見たコンブと似ていて、長くなかった。
あっちこっちで、サケ釣りが始まっていた。 朝は分からないが、昼間は釣れてる様子はない。

猿払(さるふつ)公園に来た。 猿払村の中心街に近い。

ずっと向こうは、浜頓別、雄武、紋別、そして網走。

いろんな碑がある。

ホタテ化石群、とある。 初めて見る。

確かにホタテ。 4000万年前の古いものだから、貝塚とは、関係ない。

松浦武四郎が来ている。 幕末に3回。
3回目は、1858年とある。 何月かは、書いてない。
※ この年の、5月の初めに、根室を出発。 端午の節句の時、羅臼。 (月は、旧暦で)
その後、知床半島をまわって、網走、紋別と、北上している。
ここに来たのは、5月末か、6月の初めでしょうか。
(5月23日に湧別、と分かったので)

リイシリ岳が見えたと、中頃にある。
魚の名前の「チライ」は、イトウのこと。
※ イトウが川を登る頃、フクジュソウが咲く。
それで、フクジュソウを「チライアパッポ」と云う。 アパッポ は、花。
「釣りキチ三平」の漫画で知ったんだったかな。

慰霊碑だ。 インディギルカ号とある。

昭和14年12月12日、未明。
この地の沖で、ソ連の船が、浅瀬で横転。
横倒しになった船の上に、人々は、よじ登った。
※ 12月だから、日の出は、6時40分頃。 薄明るくなるのは、6時過ぎ。
Wikipedia 他、多くの記事が未明とあるが、午前5時頃ではなく、深夜に近い、午前1時半頃。
時刻が載ってる記事がある。 情報の出どころは、「北の事件簿2 合田一道+一道塾」のよう。
船の上で助けを待つが、地元の人の小船では波が大きく、近づけない。
極寒の吹雪の中、人々は助けを待つ。
夜が明け、も一度、夜を過ごして、やっと救助される。
※ まる1日以上、船の上にいる。 どんな工夫で寒さを乗り切ったか、分からない。
船の上の人の数は、大きな波が来るたびに、減っていった。
寒さでも、死んでいく。
助かったのは、429名。 みんな凍傷。
そして、700名以上が、亡くなった。

慰霊碑の周りに咲いてた花。
※ 事故については、後ろの方で、再度。

少し向こうは、浜鬼志別という地域。
市街地を通り過ぎたら、灯台がある。 灯台の沖、1500㍍が、座礁地点。

公園内の施設。

パークゴルフ場。

道の駅の駐車場。 全てが、広い。 お店も、お風呂も、何でもある。

戻って、再び、インディギルカ遭難事故について。
インディギルカ号は、オホーツク海北部のマガダンから、ウラジオストクを目指していた。
途中、宗谷海峡を通って。
※ 余計な話 マガダンの左に、赤い○がある。
その町の名前は、オホーツク。
オホーツク海のオホーツクは、この町の名前から。

宗谷岬に近づいた時、灯台が見えた。
インディギルカ号の操縦士は、二丈岩の灯台が見えたと思った。
ところが、実際は、宗谷岬の灯台だった。
二丈岩だと思っているから、灯台の南に、進んでいった。
※ 昔は、ナビが無い。 当たり前だけど。
宗谷岬に近づいた時は、海は大シケになっていた。
これは、灯台を間違った要因になっている。

1500㍍程沖にある、トド岩で座礁。 船は、横転。
その後、陸から、800㍍の地点まで、波に押されてくる。

※ この日の海は、真っ暗。 雪が降ってるし、月夜でない。

道の駅の建物の2階に、資料館があった。
インディギルカ号の模型。 長さ80㍍の貨物船。
※ れぶんに行く時乗ったフェリーは、長さ95㍍。 あれより、15㍍短い。
この船に、1100人以上が乗っていた。
正確な人数は、船長も分からない。 誰も分からない。 不思議。

上の船に、小さなボートが2つ見える。
暗いうちに、1つのボートに10人が乗って、陸(おか)に向かった。
陸地に近づくと、波は、いっそう高くなる。
5人は、船から落ちる。 5人だけ、たどり着く。
民家に助けを求める。
電話はないから、そこの人は、警察に走る。
村中に知れ渡り、大騒ぎとなる。
そうしているうちに、夜は明けてきた。
村の小さな船では、助けに行けない。
試したが、失敗する。 嵐は止まない。
稚内から大きな船が来ることになったが、嵐で出港できない。
出港出来たのは、13日の午前3時。
ここ(浜鬼志別)に着いたのは、午前7時。
来たのは、樺太丸、宗水丸、山陽丸、の3隻。 ※ 樺太丸は、この写真でいいよう。(昭和10年建造なので)
座礁してから、29時間は経っている。
助かった人は、寒さをどうやって凌(しの)いだのか、それが分からない。
驚く。
下の写真。
船の上に、人が見える。 子どもや女の人は、真ん中かな。
大きな波が来たら、そのたびに、何人か流された。
救助の船に乗り移るのは、大変だったよう。
命綱をつかって。

多くの遺体は、浜に流れ着く。

救助船は、一度引き返しているんですね。 再度出るのが、13日の午前3時。
「ポロポロと」とある。 海のこっちから、村人は見ている。 励ましながら。

船長は、船を去る時、中には誰もいないと言った。
次の日の14日に、3人が見つかった。
船を切断したら、さらに、25人が生きていた。
この船長、どうも分からない。
「いるかもしれないから、頼む」とでも言わなければならない。
乗ってる人の命を、軽く見ている。
理由がきっとある。

たくさんの子どもたちがいる。 ほっとしているでしょうね。
※ この時から、73年経っている。
10歳だった子は、83歳。 まだ、生きている人がいますね。
助けた船は、稚内にその日のうちに戻ってるので、稚内のどこかでの撮影でしょうか。

足の包帯は、凍傷。 助かったことだけで、十分満足しているでしょうね。

助かった人達は、その年のうちに、小樽から戻ったそうです。
この写真は、小樽でのもの。

船に乗っていた人達は、何の目的で乗っていたかが、分からない。
船長は言わない。
カムチャッカから、漁業を終えて、引き揚げる途中とだけは、言ったが。
429名助かるが、誰も言わない。 (※ 亡くなった人は、700名以上)
命を助けてもらっても、言わない、言えない。
※ 1991年に、歴史学者の原暉之と云う人が、1つの説を発表した。
乗員の多くが、コルィマ鉱山などの、シベリア地方に点在していた強制収容所からの、送還者。
インディギルカ号は、政治犯および家族の護送船であった。
もしかしたら、この説は、本当かも知れない。
事故当時、ソ連は、遭難者に冷たかった。 遺体は、引き取らないと言ってきた。
船長は、船体の中を心配しなかったように、乗客に淡白だった。
見た目、やせた人が多かったと云う。
何か、事情のある人たちが乗っていたようだ。
※ このようにソ連の船を助けても、昭和20年には、樺太から戻る船が留萌沖でソ連の潜水艦に撃沈された。
3隻も。 たくさんの人が死んだ。 8月22日のこと。
※ 昭和20年の8月8日に、ソ連は日本に宣戦布告している。
戦争になったら、何でもありになってしまった。
樺太の南半分は日本の領土で、そこに、ソ連兵が攻めてきた。
日本兵との戦いになる。 一般の人達も、犠牲になる。
終戦の15日を過ぎても、国からの指示が、戦ってる日本軍に届かないから、そのまま戦い続ける。
22日に停戦協定が結ばれるが、それまで続いた。
正岡郵便局で9名が自決したのは、2日前の、20日だった。
浜鬼志別の人達は、優しかった。
救助に全面協力し、1971年には慰霊碑も建てた。
【今日の歌】 今日からまた、歌を載せることに。
※ 歌詞の中に、「カンナの花」が出てきます。 真っ赤な花です。
燃えるような赤。 何をイメージしているのでしょう。
【道の駅】 さるふつ公園
【明日の予定】 この近く 沼がある。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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