大船渡市、陸前高田市の被災地を通った。
復興は、間違いなく進んでいるように見えた。
昨年の3月に撮影した写真と、比べてみた。
※ ※ ※ ※
印の所が、大船渡市三陸町 越喜来(おきらい)。
鉄道は、三陸鉄道南リアス線。 今は、不通。
津波は、線路の下までやってきた。
昨年3月末の様子。
道路標識の津波想定区域は、どこも、ほぼ正確。 このことには、驚く。
線路から撮影。 左の建物は、越喜来診療所。
2日間、ここの清掃をした。
建物の中に、津波は大量の泥とゴミを置いていった。
この撮影をした時、まだ、診療所に来ることは知らない。
今は不通だが、復旧工事は進んでいる。
別方向からの診療所。 診療所は、全員避難出来た。
向こうの緑の建物は、老人ホーム。 診療所より少し低い。 1階の天井近くまで、水は来た。
多くの人が亡くなった。
震災後。 診療所の中の全ての物を出した。
泥やゴミを運び出した後、水洗いした。
※ 越喜来診療所の清掃 人々は流された、という言い方 陸前高田市の街並みは消えていた 他 (2011/3/29)
プレハブのお店が、出来ていた。
プレハブのお店の方に下りて、線路の方に戻っている。 右のお店も新しい。
車で、線路下を通って、海の方に行った。 正面向こうは、越喜来小学校。
この小学校は、避難の仕方が、周到だった。 上手だった。
建物の右端は、高台に避難するための廊下。
必要を訴えた人がいて、前年だったかに、出来た。
1階から外に出ないで、2階から、山に向かって避難した。
大きな地震が収まったら、直ぐに避難開始。
小さな揺れの時は、歩いたと云う。 大きく揺れた時だけ、停まった。
どのように避難するか、などの相談は一切なし。
それをしないために、普段、避難訓練をする。
多くの子供の命を守れなかった大川小学校は、どうするかの相談が長すぎた。
職員全体が、一体となって、子供を津波から守った。
下の文にある、副校長(教頭)の校長への進言もいい。 用心、さらに用心だ。
※ 記事は、朝日新聞。
小学校の近くから、越喜来の真ん中辺りを撮影。
この写真は、上の写真の、少し右。
おばあちゃんが2人いた。 避難所から出て来て、散歩している。
「みんな大変だから、迷惑かけないようにしなければ」と、おばあちゃんは言った。
この場所の後ろの方に、越喜来の駅がある。 子供たちは、まず最初、そこに避難した。
おばあちゃん達の避難所も、後ろの方にある。
海の近くには、瓦礫がまだ残っていた。
海沿いの道を1㌔程行くと、この場所。 左から来た。
以前は、線路が「飴」のように曲がっていた。 鉄道の土手も壊れていた。
※ 震災後の写真をは撮ってあったが、見つからない。
復旧工事は、始まっている。
道も壊れた。
ここは、綾里(りょうり)地区。
昭和8年の三陸津波の時、ほとんどの家が流された。
その当時、この写真に見える所に、家はいっぱいあった。
一番上にあった家が、流されなかった。 その家が、避難所になった。
その後、その家の上にみんな家を建てた。
一番上にあった家は、一番下になった。
今回の地震で、一番下の家の、少し下まで津波は来た。 家は無事だった。
教訓が生きた。 下に、詳しく。
※ 津波の被害 大船渡市~赤碕町(3ヶ所)、三陸町綾里(2ヶ所)、三陸町越喜来(2ヶ所)~ 旅は今日で2年 (2011/3/31)
このように、家は山の上に。
大船渡市の市街地。
地盤沈下を起こしたため、水位が高い。
新しい建物が建ち始めている雰囲気は無い。
将来的に、工場は出来るかもしれないが、商店や住宅は建てないように思う。
高い所にも、土地はある。
ここに、駅があった。 コンクリートのかげに、線路。
大船渡駅を背中に、駅前を撮影。 下の方に、同じ場所からの写真がある。
震災後のようす。 3月末に撮影。
陸前高田の道の駅、高田松原。 大きかった。 400台以上、停められた。 こんなんだった。
松原まで、歩いて行けた。 2009年の秋に来た。
建物の後ろはこう。 橋が見える。 あの橋を渡って、松原に行った。
奥に、橋が見える。 松原の中を歩いた。
見事な松原だった。 啄木が歌を残していた。
津波は、全てを山に押し流して、持っていくものは海に持って行った。
陸前高田が、一番被害が大きかった。
被災した他の町の人達が、陸前高田はかわいそう、と言った。
行き所のない瓦礫が、まだあった。
上の写真の左。 誰かが、ヒマワリを植えた。
この建物の向こうは海。 右後ろの方に、1本だけ残った松はあった。
写真の下に文のある写真は、外国メディアの写真。 他は、私。
きびしい写真がある。
3月11日の夜の様子。 ※ このブログを書いた日に、「南部牛追唄をいつか調べたい」と書いていた。
気仙沼で、200円のお風呂に入って、夏に停まった駐車場に向かった。
途中、この場所を通った。 いつか通った道。
宮城トヨタの店が見える。 お世話になったことがある。
震災で大丈夫だったのか、心配していた。 大丈夫だった。
3年前に撮った写真。
地図の赤い○の場所。 海に近い所は、大変な被害。
三陸は、ほとんどの場所に行っている。
今度来たら、復興の様子、被災者の努力を、多くの場所を訪ねて、もっと書かないとダメかな。
気持ちを、充実させて。
【今日の曲】 被災地にいる時、震災の悲しみは、いつも下の曲と重なっていた。
久しぶりに聴く。 ※ 演奏は、作曲した人。
【停泊場所】 気仙沼と南三陸の間のパーキング。
ここと思っていた所を、通りすぎてしまった。
【明日の予定】 南三陸町
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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復興は、間違いなく進んでいるように見えた。
昨年の3月に撮影した写真と、比べてみた。
※ ※ ※ ※
印の所が、大船渡市三陸町 越喜来(おきらい)。

鉄道は、三陸鉄道南リアス線。 今は、不通。
津波は、線路の下までやってきた。

昨年3月末の様子。
道路標識の津波想定区域は、どこも、ほぼ正確。 このことには、驚く。

線路から撮影。 左の建物は、越喜来診療所。
2日間、ここの清掃をした。

建物の中に、津波は大量の泥とゴミを置いていった。
この撮影をした時、まだ、診療所に来ることは知らない。

今は不通だが、復旧工事は進んでいる。

別方向からの診療所。 診療所は、全員避難出来た。
向こうの緑の建物は、老人ホーム。 診療所より少し低い。 1階の天井近くまで、水は来た。
多くの人が亡くなった。

震災後。 診療所の中の全ての物を出した。
泥やゴミを運び出した後、水洗いした。
※ 越喜来診療所の清掃 人々は流された、という言い方 陸前高田市の街並みは消えていた 他 (2011/3/29)

プレハブのお店が、出来ていた。

プレハブのお店の方に下りて、線路の方に戻っている。 右のお店も新しい。

車で、線路下を通って、海の方に行った。 正面向こうは、越喜来小学校。

この小学校は、避難の仕方が、周到だった。 上手だった。
建物の右端は、高台に避難するための廊下。
必要を訴えた人がいて、前年だったかに、出来た。
1階から外に出ないで、2階から、山に向かって避難した。

大きな地震が収まったら、直ぐに避難開始。
小さな揺れの時は、歩いたと云う。 大きく揺れた時だけ、停まった。
どのように避難するか、などの相談は一切なし。
それをしないために、普段、避難訓練をする。
多くの子供の命を守れなかった大川小学校は、どうするかの相談が長すぎた。
職員全体が、一体となって、子供を津波から守った。
下の文にある、副校長(教頭)の校長への進言もいい。 用心、さらに用心だ。
※ 記事は、朝日新聞。

小学校の近くから、越喜来の真ん中辺りを撮影。

この写真は、上の写真の、少し右。
おばあちゃんが2人いた。 避難所から出て来て、散歩している。
「みんな大変だから、迷惑かけないようにしなければ」と、おばあちゃんは言った。
この場所の後ろの方に、越喜来の駅がある。 子供たちは、まず最初、そこに避難した。
おばあちゃん達の避難所も、後ろの方にある。

海の近くには、瓦礫がまだ残っていた。

海沿いの道を1㌔程行くと、この場所。 左から来た。
以前は、線路が「飴」のように曲がっていた。 鉄道の土手も壊れていた。
※ 震災後の写真をは撮ってあったが、見つからない。
復旧工事は、始まっている。

道も壊れた。

ここは、綾里(りょうり)地区。

昭和8年の三陸津波の時、ほとんどの家が流された。
その当時、この写真に見える所に、家はいっぱいあった。
一番上にあった家が、流されなかった。 その家が、避難所になった。
その後、その家の上にみんな家を建てた。
一番上にあった家は、一番下になった。
今回の地震で、一番下の家の、少し下まで津波は来た。 家は無事だった。
教訓が生きた。 下に、詳しく。
※ 津波の被害 大船渡市~赤碕町(3ヶ所)、三陸町綾里(2ヶ所)、三陸町越喜来(2ヶ所)~ 旅は今日で2年 (2011/3/31)

このように、家は山の上に。

大船渡市の市街地。

地盤沈下を起こしたため、水位が高い。

新しい建物が建ち始めている雰囲気は無い。
将来的に、工場は出来るかもしれないが、商店や住宅は建てないように思う。
高い所にも、土地はある。

ここに、駅があった。 コンクリートのかげに、線路。

大船渡駅を背中に、駅前を撮影。 下の方に、同じ場所からの写真がある。

震災後のようす。 3月末に撮影。







陸前高田の道の駅、高田松原。 大きかった。 400台以上、停められた。 こんなんだった。
松原まで、歩いて行けた。 2009年の秋に来た。

建物の後ろはこう。 橋が見える。 あの橋を渡って、松原に行った。

奥に、橋が見える。 松原の中を歩いた。


見事な松原だった。 啄木が歌を残していた。


津波は、全てを山に押し流して、持っていくものは海に持って行った。
陸前高田が、一番被害が大きかった。
被災した他の町の人達が、陸前高田はかわいそう、と言った。

行き所のない瓦礫が、まだあった。

上の写真の左。 誰かが、ヒマワリを植えた。

この建物の向こうは海。 右後ろの方に、1本だけ残った松はあった。

写真の下に文のある写真は、外国メディアの写真。 他は、私。
きびしい写真がある。











3月11日の夜の様子。 ※ このブログを書いた日に、「南部牛追唄をいつか調べたい」と書いていた。




気仙沼で、200円のお風呂に入って、夏に停まった駐車場に向かった。
途中、この場所を通った。 いつか通った道。

宮城トヨタの店が見える。 お世話になったことがある。
震災で大丈夫だったのか、心配していた。 大丈夫だった。

3年前に撮った写真。

地図の赤い○の場所。 海に近い所は、大変な被害。

三陸は、ほとんどの場所に行っている。
今度来たら、復興の様子、被災者の努力を、多くの場所を訪ねて、もっと書かないとダメかな。
気持ちを、充実させて。
【今日の曲】 被災地にいる時、震災の悲しみは、いつも下の曲と重なっていた。
久しぶりに聴く。 ※ 演奏は、作曲した人。
【停泊場所】 気仙沼と南三陸の間のパーキング。
ここと思っていた所を、通りすぎてしまった。
【明日の予定】 南三陸町
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
再び、東北。
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忘れないと思うけれど、他のすべての記憶同様、少しずつ、
薄れていくと思う。
今年も、気仙沼に行ったけれど、来年もいくかどうか、わからない。
もっと、行政関係の方以外との結びつきを深めていたら、違っていた
かも知れないけれど、被災者の方に直接寄り添うのはむつかしい。
ボランティア同士の方が、はるかに、気持ちが通じる気がするのだけれど、
気仙沼を離れても同じかと問われると自信がない。言葉の表現が
おかしいけれど、気仙沼を思う気持ちは持ち続けていていいけれど、
ストーカーになっちゃいけないなんて思ったりする。