南三陸町は、防災無線で最後まで避難を叫び続けた人がいた町。
その防災対策庁舎には、今も、多くの人が訪れている。
復興の足音が、はっきりと聞こえる。
それが、南三陸町を見ての、印象。
自立に向けて、町民みんな、戦っていた。
「We never lose」とあった。
(私達は決して負けません、また、失敗しません、のような意味)
※ ※ ※ ※
※ 昨晩(17日の晩)、野球をネットで進行状況を見た。
日ハムの糸井が、ホームランを打って同点。
糸井ありがとう。 今後、決して悪口は書かないからね、と言ってバンザイ。
ブログは、後回しになった。
いただいた酒で、まず乾杯。
勝ったので、飲み過ぎてしまった。
最近、酒は飲んでいなかったのに。
ぐっすり寝た。
おかげで、18日は、いそがしい。
南三陸町は、気仙沼市の南。 気仙沼から、宮城県。 ※ 赤○は、道の駅津山。 晩は、ここに。
南三陸に入った。 ここは、歌津地区。 瓦礫がなくなった。 まだ、そこまで。
草が生えたのが、今年の風景の特徴。
歌津(志津川)の海岸に来た。 右奥に、港がある。
左に小さな島。 島は小さくても、津波には負けなかった。
こう思ったことが、後で瓦礫を見た時に、役立った。
港は、地盤沈下していた。 海面とそんなに差が無い。
港の方に来たら、工場が目に入った。 本格的に、操業している。
これが、大きな願い。
向こうから来て、振り返ったところ。 これだけ、工場がある。 活気を感じた。 右が海。
プレハブの工場もある。
左が海。 水は、雨水でなく海水。
大船渡、陸前高田、南三陸、どこも地盤沈下が激しい。 この後、どんどん潮が満ちてくる。
ここに、元々自分の店があったのか。
丈夫な鉄骨の建物だけが、残った。 普通のは、みんな流された。
瓦礫の山。 行き場所が無いのか。 分別もまだのよう。
※ 津波から町を守るには、コンクリートの防波堤や、細い堤防では無理。
島のような丈夫さを持っていなければならない。
例えば、幅70㍍、高さ30㍍の、幅の広い堤防。
その上は公園。 市民・町民の憩いの場。
港の後ろに作る。
河口をどうするかには、最新の技術が求められる。
行き場所のない瓦礫は、その中に埋める。
そのことに問題があるなら、他に持って行っても、問題は起きる。
廃棄物にしかならなかった瓦礫が、そこに住む人の安全を守ってくれることになる。
商店街や住宅が、山の上に逃げなくて済む。
プレハブの、コンビニや小さなお店。
志津川中学校への道を登った。 ここに、南三陸町の中心街が広がっていた。
中央に、防災対策庁舎。 右の白い建物は、高野会館。
※ 追記 白い建物を、志津川病院としていたのですが、間違いで、訂正しました。
ずっと山側の方。 津波は、この場所のはるか右奥まで、襲った。
上の写真の少し右に、商店街が生まれていた。 南三陸さんさん商店街。
すぐ横には、銀行もあった。
これだけのお店。
店は小さいけど、生活用品は、何でもそろう。
ここは、広場のようになっている。 町民出会いの場でもあるのか。
食堂もある。 雨が降ったら、ここで集える。
防災庁舎近くに、トイレは無い。
観光バスの中には、ここに寄るバスもある。
私が来た時も、バスはあった。
何か買って食べたりして、一休み。
工場を見ても思ったが、復興が始まったと感じる。
自立のことが書いている。 これが大事なんですね。
多くの人の人生が、予想できない形で、動いた。 涙が出るような、あれこれ。
誰から見ても、試練にしては、きびしすぎた。
最初にも書いたが、「We never lose」とあった。
私達は決して負けません、失敗はしません、と強い意志を表している。
居酒屋や食堂もある。 みんなで楽しめる。
この人達は、バスで来た人のよう。 防災庁舎があるから来ている。
写真屋さんの前に、写真があった。
震災前。 私は、平成9年に海側の道を通っている。
四季おりおりの美しい風景、あたたかい人情とある。
津波が、全てを流した。
防災対策庁舎の屋上。 志津川病院の屋上。 左は4階、右は5階。
こんな文、いいですね。
防災対策庁舎。 後ろから撮影。
今でも、多くの人が手を合わせにやってくる。
潮が満ちてきたのか、海水が流れ込んでくる。
この建物の2階から、防災無線の放送は流れた。
多くの人が、その放送で命が救われた。
しかし、防災対策庁舎では、41名の命が失われた。
津波の高さは、3階を越えた。
巨大津波警報だ出た段階で、役場の職員の命を預かる町長さんは、高台への避難の指示を出してもおかしくなかった。
※ 防災無線放送の機器は、持ち出しても利用できる仕組みがあったようだ。
下の写真で、防災対策庁舎は、建物に囲まれていたのが分かる。
2階で放送していた人は、隣の建物が壊れるまで、津波は見えない。 ※ 隣は、役場の建物。
※ 写真① 写真② 写真③ 写真④ 写真⑤
階段の、右の一番上にいた人は、助かった。 この手すりは丈夫だった。
ただ、そこに物がぶつかって来たら、下の手すりのように壊れてしまう。
防災無線で最後まで避難を呼びかけた人は、2人。
女性の方と、上司のMさん。
※ 報道で名前は出ているので、今までは、名前を書いていました。
このブログから、Mさんにします。
Mさんの奥さまと、4時過ぎに待ち合わせをしていた。
震災の後、私はここに来た。 その時偶然お会いして、いろいろ話を聞かせていただいた。
そのお話しを元に書いたのが、下のブログ。
※ 防災無線の放送の全てが、今は分かっている。(NHKが調べた)
下のブログの内容が大丈夫なことは、それで確認された。
最後まで防災無線で叫び続けた人は、2人いた。 ~南三陸町~ 他 (2011/4/13)
奥さまは、冬の吹雪の日も、毎日ここに通った。 ※ 写真は、河北新報よりお借り。
この後、奥さまと、しばらくお話し。
どんな考え方をしたらいいのかなどを。
途中から雨が降ってきたので、私の車の中で。
※ 南三陸の海の幸やお酒など、たくさん頂いてしまった。
防災対策庁舎は、保存するかどうか、揺れている。
この建物を見たら、つらい思い出がよみがえる人もいる。
むずかしい。
今、多くの人が訪れて、お店にも寄ってくれる。
そのことは、復興を支えてくれることにも、なっている。
2人が最後まで叫び続けたことが無かったら、だれもここには来ない。
今も2人は、復興を手伝ってくれている。 支えてくれている。
復興が終わるまで、残すと云う考えは、どうでしょう。
復興が叶った時、この場所には、亡くなった全ての人たちの冥福を祈って、今後の人々の安全を願って、碑を建てる。
防災対策庁舎の写真も、碑に彫りこんで。
遠くない将来、南三陸町は間違いなく復興する。
流された人達が、もう一度住んでみたいと思う町を、きっとつくる。
聞こえて来た、復興に向けての確かな足音で、そう感じた。
【道の駅】 津山
【明日の予定】 作並温泉とか、そっちの方かな。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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その防災対策庁舎には、今も、多くの人が訪れている。
復興の足音が、はっきりと聞こえる。
それが、南三陸町を見ての、印象。
自立に向けて、町民みんな、戦っていた。
「We never lose」とあった。
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日ハムの糸井が、ホームランを打って同点。
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勝ったので、飲み過ぎてしまった。
最近、酒は飲んでいなかったのに。
ぐっすり寝た。
おかげで、18日は、いそがしい。
南三陸町は、気仙沼市の南。 気仙沼から、宮城県。 ※ 赤○は、道の駅津山。 晩は、ここに。

南三陸に入った。 ここは、歌津地区。 瓦礫がなくなった。 まだ、そこまで。

草が生えたのが、今年の風景の特徴。

歌津(志津川)の海岸に来た。 右奥に、港がある。
左に小さな島。 島は小さくても、津波には負けなかった。
こう思ったことが、後で瓦礫を見た時に、役立った。

港は、地盤沈下していた。 海面とそんなに差が無い。

港の方に来たら、工場が目に入った。 本格的に、操業している。

これが、大きな願い。

向こうから来て、振り返ったところ。 これだけ、工場がある。 活気を感じた。 右が海。
プレハブの工場もある。

左が海。 水は、雨水でなく海水。
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ここに、元々自分の店があったのか。

丈夫な鉄骨の建物だけが、残った。 普通のは、みんな流された。

瓦礫の山。 行き場所が無いのか。 分別もまだのよう。

※ 津波から町を守るには、コンクリートの防波堤や、細い堤防では無理。
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例えば、幅70㍍、高さ30㍍の、幅の広い堤防。
その上は公園。 市民・町民の憩いの場。
港の後ろに作る。
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そのことに問題があるなら、他に持って行っても、問題は起きる。
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商店街や住宅が、山の上に逃げなくて済む。
プレハブの、コンビニや小さなお店。


志津川中学校への道を登った。 ここに、南三陸町の中心街が広がっていた。

中央に、防災対策庁舎。 右の白い建物は、高野会館。
※ 追記 白い建物を、志津川病院としていたのですが、間違いで、訂正しました。

ずっと山側の方。 津波は、この場所のはるか右奥まで、襲った。

上の写真の少し右に、商店街が生まれていた。 南三陸さんさん商店街。

すぐ横には、銀行もあった。

これだけのお店。

店は小さいけど、生活用品は、何でもそろう。

ここは、広場のようになっている。 町民出会いの場でもあるのか。

食堂もある。 雨が降ったら、ここで集える。
防災庁舎近くに、トイレは無い。
観光バスの中には、ここに寄るバスもある。
私が来た時も、バスはあった。
何か買って食べたりして、一休み。


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自立のことが書いている。 これが大事なんですね。


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誰から見ても、試練にしては、きびしすぎた。

最初にも書いたが、「We never lose」とあった。
私達は決して負けません、失敗はしません、と強い意志を表している。

居酒屋や食堂もある。 みんなで楽しめる。


この人達は、バスで来た人のよう。 防災庁舎があるから来ている。


写真屋さんの前に、写真があった。

震災前。 私は、平成9年に海側の道を通っている。
四季おりおりの美しい風景、あたたかい人情とある。

津波が、全てを流した。

防災対策庁舎の屋上。 志津川病院の屋上。 左は4階、右は5階。


こんな文、いいですね。

防災対策庁舎。 後ろから撮影。

今でも、多くの人が手を合わせにやってくる。

潮が満ちてきたのか、海水が流れ込んでくる。

この建物の2階から、防災無線の放送は流れた。
多くの人が、その放送で命が救われた。
しかし、防災対策庁舎では、41名の命が失われた。
津波の高さは、3階を越えた。
巨大津波警報だ出た段階で、役場の職員の命を預かる町長さんは、高台への避難の指示を出してもおかしくなかった。
※ 防災無線放送の機器は、持ち出しても利用できる仕組みがあったようだ。
下の写真で、防災対策庁舎は、建物に囲まれていたのが分かる。
2階で放送していた人は、隣の建物が壊れるまで、津波は見えない。 ※ 隣は、役場の建物。
※ 写真① 写真② 写真③ 写真④ 写真⑤
階段の、右の一番上にいた人は、助かった。 この手すりは丈夫だった。
ただ、そこに物がぶつかって来たら、下の手すりのように壊れてしまう。


防災無線で最後まで避難を呼びかけた人は、2人。
女性の方と、上司のMさん。
※ 報道で名前は出ているので、今までは、名前を書いていました。
このブログから、Mさんにします。
Mさんの奥さまと、4時過ぎに待ち合わせをしていた。
震災の後、私はここに来た。 その時偶然お会いして、いろいろ話を聞かせていただいた。
そのお話しを元に書いたのが、下のブログ。
※ 防災無線の放送の全てが、今は分かっている。(NHKが調べた)
下のブログの内容が大丈夫なことは、それで確認された。
最後まで防災無線で叫び続けた人は、2人いた。 ~南三陸町~ 他 (2011/4/13)

奥さまは、冬の吹雪の日も、毎日ここに通った。 ※ 写真は、河北新報よりお借り。

この後、奥さまと、しばらくお話し。
どんな考え方をしたらいいのかなどを。
途中から雨が降ってきたので、私の車の中で。
※ 南三陸の海の幸やお酒など、たくさん頂いてしまった。
防災対策庁舎は、保存するかどうか、揺れている。
この建物を見たら、つらい思い出がよみがえる人もいる。
むずかしい。
今、多くの人が訪れて、お店にも寄ってくれる。
そのことは、復興を支えてくれることにも、なっている。
2人が最後まで叫び続けたことが無かったら、だれもここには来ない。
今も2人は、復興を手伝ってくれている。 支えてくれている。
復興が終わるまで、残すと云う考えは、どうでしょう。
復興が叶った時、この場所には、亡くなった全ての人たちの冥福を祈って、今後の人々の安全を願って、碑を建てる。
防災対策庁舎の写真も、碑に彫りこんで。
遠くない将来、南三陸町は間違いなく復興する。
流された人達が、もう一度住んでみたいと思う町を、きっとつくる。
聞こえて来た、復興に向けての確かな足音で、そう感じた。
【道の駅】 津山
【明日の予定】 作並温泉とか、そっちの方かな。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
Re: タイトルなし
ご意見ありがとうございます。
「左に小さな島」は、写真に半分ほど写ってる島のことです。
荒島は、周囲2㌔ほどの大きな島ですね。
工場やお店の再開は、それに関わりのある人にとっては復興の足音かもしれないが、地元民にとっての復興とは同じではない、ということなんですね。
復興の本質的な部分は、まだまだということかなと、コメントを読んで感じました。
白い建物については、地元の人に聞いたのですが、私が間違って記録したと思います。
ブログを訂正しておきます。
復興への確かな支援が続くためにも、風化させないことが大事でしょうか。
そのように思います。
「左に小さな島」は、写真に半分ほど写ってる島のことです。
荒島は、周囲2㌔ほどの大きな島ですね。
工場やお店の再開は、それに関わりのある人にとっては復興の足音かもしれないが、地元民にとっての復興とは同じではない、ということなんですね。
復興の本質的な部分は、まだまだということかなと、コメントを読んで感じました。
白い建物については、地元の人に聞いたのですが、私が間違って記録したと思います。
ブログを訂正しておきます。
復興への確かな支援が続くためにも、風化させないことが大事でしょうか。
そのように思います。
ありがとうございます。
>「左に小さな島」は、写真に半分ほど写ってる島のことです。
すみません、見えませんがおそらく通称「出べそ島」だと理解しました。
震災後残った公共施設34箇所は、県に委託され順次解体が進んでいます。
ただ、残った建物が次々と無くなっていくと、
町民でも何が解体されて、何が残っているのか分からないことが多いとも思います。
その前に生活しなければならないので、それどころではないということが多分にあります。
ところで、防災対策庁舎に関しての今日の新聞記事です。
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/10/20121027t13018.htm
東海・東南海・南海地震が想定されている中で、
保存or解体を町民だけで決定していいのか?
被災地に住んでいる個人的な考えですが、
首が痛くなるほど見上げる高さまで津波が来ました。
これは忘れてほしくない。
多くの犠牲を伴ったのだから。
>「左に小さな島」は、写真に半分ほど写ってる島のことです。
すみません、見えませんがおそらく通称「出べそ島」だと理解しました。
震災後残った公共施設34箇所は、県に委託され順次解体が進んでいます。
ただ、残った建物が次々と無くなっていくと、
町民でも何が解体されて、何が残っているのか分からないことが多いとも思います。
その前に生活しなければならないので、それどころではないということが多分にあります。
ところで、防災対策庁舎に関しての今日の新聞記事です。
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/10/20121027t13018.htm
東海・東南海・南海地震が想定されている中で、
保存or解体を町民だけで決定していいのか?
被災地に住んでいる個人的な考えですが、
首が痛くなるほど見上げる高さまで津波が来ました。
これは忘れてほしくない。
多くの犠牲を伴ったのだから。
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・「復興の足音が、はっきりと聞こえる。
それが、南三陸町を見ての、印象。」→町民には聞こえてません。
・「左に小さな島。 島は小さくても、津波には負けなかった。」→「荒島」を小さいと思う町民は少ないかと。
その他もありますが、
・「中央に、防災対策庁舎。 右の白い建物は、志津川病院。 建物の4階部分は、取り壊した。」 →公立志津川病院は既に全て解体されています。その白い建物は高野会館です。
ただ、震災が風化される中、南三陸町の記事を書いていただき、ありがとうございます。