鳥居峠は、旧中仙道の難所。 標高、1197㍍。
昔の道が残っていて、そこを歩いてみた。
自分が思っていたほど遠くはなく、6㌔ほどの山道だった。
のんびり歩いていたら、そのうちに着いた。
色んなものに出合って、退屈しなかった。
※ ※ ※ ※
※ お知らせ
写真が、今までのように見られない方がおられましたら、下を参考にして下さい。
(自分だけかもしれない)
国道も鉄道も、トンネル。
昨日見た、奈良井宿の南からスタート。 案内書で地図をいただいた。
熊に、一応気をつけてください、と言われた。
直ぐに、右上の山に旧街道は上がった。
少し歩いたら、石段になった。 雨の時、特に助かりますね。
右から左に歩く。
落ち葉を踏みしめながら歩く。 時々、人に出会う。 上着を脱いだ。
左に見える道を、歩いてきた。 深い谷が下にある。
時々、距離の表示。 思ってたより、遠くない。
この場所は、昔から、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。
武田勝頼が、この峠で戦っていた。 大敗。 死体を葬ったので、この名前。
※ この時、1582年2月16日。 勝頼にはもう戦う力はなかった。
天目山で自害したのは、3月11日。
風林火山の中で、由布姫は、諏訪の高島城が落ちたとき、生きて世の中がどうなるか見たいと言った。
それを聞いた山本勘助は、燃える城から、由布姫を助けた。 由布姫15歳。
由布姫は、信玄の側室になり、勝頼を生んだ。
25歳の若さで、由布姫は死ぬ。
でも、そのために、我が子勝頼の、悲惨な最期を知らないで済んだ。
武田勝頼の最後は、天目山の麓の田野。 今はそこに、景徳院。~甲州市~ 他 (2011/11/2)
建物の壁に、菊池寛の文が。 作家の文は、違う。
奈良井側からの道は、特に険しいとある。
※ 九州は今日が最後 青の洞門 他 (2009/05/31)
小説で言ってる崖は、こんな感じ。
道は進む。
今はみんな、歩きやすい靴。 昔は、わらじ。
昔の人たちの足は、今の私たちより、ずっと強かった。
それでも、わらじでの峠越えは、大変だ。
紅葉を見るとき、いつも上ばかり見る。 たまには、下を。
一里塚跡。 峠の頂上までは、遠くない。
鳥居峠の、頂上。 ここから向こうの水は、木曽川に。 こっちの水は、信濃川。
谷の下に、奈良井宿。 その少し向こうが、木曽の入り口。
中仙道には、67の宿場がある。
昨日書き忘れました。 奈良井宿は、中仙道の真ん中にある。
京都から数えても、江戸から数えても、34番目。
標高、1197㍍。
距離は、約6㌔。
峠を少し行ったら、御嶽山が見えた。 3067㍍。 真っ白だ。
「 御嶽山 アルプスから ひとり離れて 3000㍍ 」
峠の説明にあった、絵。
熊よけの鐘が、時々。
この一帯は、栃(とち)の木 群生地。 こんなお話。
右に御岳神社があるが、鳥居が危険と、進入禁止。 神社は、屋根が少し見えた。
そばに、円山公園。 石碑がいっぱい。 ここで、弁当を食べた。 卵焼きと鰹節を乗っけただけ。
芭蕉の句碑。 「木曽の栃 うき世の人の 土産かな」 芭蕉も、この峠を越えていた。
天保13年に建っている。
峠は、急な下りになった。 下に、木祖村が見えた。 ※ 木曽村ではない。
小さな、馬頭観音。 裏の字が、享保と読めた。
※ こういうのを他から持ってきて置いたら、すべての信用を失うかな、と少しだけ・・。
ここにも、石畳。
峠を下りた。
大きな紅葉の木。 カエデの説明。 いつかもこんなの見た。 大丈夫のよう。
旅人が、のどを潤した。 私も、手ですくって飲んだ。
陽のあたる坂道。
上の写真の近くに、下の説明。 ここで、街道が分かれていた。
明治44年に、中央本線の、名古屋と塩尻の間が通った。 中央本線の、西半分。
その時から、高山とか、飛騨の女工たちは、汽車に乗ることが出来た。
でも、それまでは、全部歩いた。
「ああ 野麦峠」の 政井みね が、兄に背負われて野麦峠まで戻ったのは、明治42年。
汽車が走る2年前だから、歩いた。
歩いたルートは、右の図。 ピンクの○は、今いるところ。
※ 野麦峠で、みねが見た飛騨の風景は、昔のままに・・・。 飛騨の匠の、古川の町並み。 他 (2010/6/19)
※ 「あゝ野麦峠」の主人公、政井みねの故郷を歩く ~飛騨市河合町角川~ 他 (2010/6/18)
線路のある風景は、いい。 右が、名古屋方面。
薮原(やぶはら)宿。 昔の面影が、ぽつんぽつんと、残っている。
昔、ここに高い塀があった。 今は、石垣だけ。
塀は、火事のとき、延焼を防いだ。
老舗の雰囲気。 木曽村は、木曽川の源流とある。
この村の人たちは、奈良井宿のように残せばよかったと、思っているのでしょうか。
お六櫛です。 昨日も、ありましたね。
地図があった。 駅の上に、新しく道の駅があった。 今晩はここ、と決めた。
上から見た、薮原駅。
4時前の電車で、奈良井駅に戻った。
奈良井駅。
山の中は、日が沈むのが早い。 それでも、観光客はいた。 今日は、土曜日。
昨日も、太鼓橋を通って、戻った。
今まで通った山道の旧街道は、どこも人は歩いていなかった。
木曽の旧街道は、人気の道。 多くの人に出会った。
【今日の歌】 日本人が歌って、最初に流れた百万本のバラは、下です。 ラジオからです。
歌っているのは、ニーナさんと云う人。 ギターも、彼女。 NHKのロシア語のラジオ講座の中で、歌った。
下の写真の左が、ニーナさん。 右は、昨日載せた、プガチョワさんです。
2人とも、若い時。 プガチョワさんが、日本に来た時に、ニーナさんのお店で撮影。 東京。
※ 百万本のバラについては、以前書きました。 好きな曲なので、再び。
ポイントだけ書いています。。
明日は、加藤登紀子の、百万本のバラ。
【その他】 私は今日、車の鍵(かぎ)を、右手に持っていなかったので、探した。
少しで、気づいた。 さすが私だ。 左手に持っていた。
【道の駅】 木曽川源流の里 きそむら
【明日の予定】 福島宿
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は2位、
旅行全体で4位です。
気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
昔の道が残っていて、そこを歩いてみた。
自分が思っていたほど遠くはなく、6㌔ほどの山道だった。
のんびり歩いていたら、そのうちに着いた。
色んなものに出合って、退屈しなかった。
※ ※ ※ ※
※ お知らせ
写真が、今までのように見られない方がおられましたら、下を参考にして下さい。
(自分だけかもしれない)

国道も鉄道も、トンネル。
昨日見た、奈良井宿の南からスタート。 案内書で地図をいただいた。
熊に、一応気をつけてください、と言われた。
直ぐに、右上の山に旧街道は上がった。


少し歩いたら、石段になった。 雨の時、特に助かりますね。

右から左に歩く。

落ち葉を踏みしめながら歩く。 時々、人に出会う。 上着を脱いだ。

左に見える道を、歩いてきた。 深い谷が下にある。

時々、距離の表示。 思ってたより、遠くない。

この場所は、昔から、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。

武田勝頼が、この峠で戦っていた。 大敗。 死体を葬ったので、この名前。

※ この時、1582年2月16日。 勝頼にはもう戦う力はなかった。
天目山で自害したのは、3月11日。
風林火山の中で、由布姫は、諏訪の高島城が落ちたとき、生きて世の中がどうなるか見たいと言った。
それを聞いた山本勘助は、燃える城から、由布姫を助けた。 由布姫15歳。
由布姫は、信玄の側室になり、勝頼を生んだ。
25歳の若さで、由布姫は死ぬ。
でも、そのために、我が子勝頼の、悲惨な最期を知らないで済んだ。
武田勝頼の最後は、天目山の麓の田野。 今はそこに、景徳院。~甲州市~ 他 (2011/11/2)
建物の壁に、菊池寛の文が。 作家の文は、違う。
奈良井側からの道は、特に険しいとある。

※ 九州は今日が最後 青の洞門 他 (2009/05/31)
小説で言ってる崖は、こんな感じ。

道は進む。
今はみんな、歩きやすい靴。 昔は、わらじ。
昔の人たちの足は、今の私たちより、ずっと強かった。
それでも、わらじでの峠越えは、大変だ。
紅葉を見るとき、いつも上ばかり見る。 たまには、下を。


一里塚跡。 峠の頂上までは、遠くない。

鳥居峠の、頂上。 ここから向こうの水は、木曽川に。 こっちの水は、信濃川。

谷の下に、奈良井宿。 その少し向こうが、木曽の入り口。

中仙道には、67の宿場がある。
昨日書き忘れました。 奈良井宿は、中仙道の真ん中にある。
京都から数えても、江戸から数えても、34番目。
標高、1197㍍。


距離は、約6㌔。

峠を少し行ったら、御嶽山が見えた。 3067㍍。 真っ白だ。

「 御嶽山 アルプスから ひとり離れて 3000㍍ 」
峠の説明にあった、絵。


熊よけの鐘が、時々。

この一帯は、栃(とち)の木 群生地。 こんなお話。


右に御岳神社があるが、鳥居が危険と、進入禁止。 神社は、屋根が少し見えた。

そばに、円山公園。 石碑がいっぱい。 ここで、弁当を食べた。 卵焼きと鰹節を乗っけただけ。

芭蕉の句碑。 「木曽の栃 うき世の人の 土産かな」 芭蕉も、この峠を越えていた。
天保13年に建っている。

峠は、急な下りになった。 下に、木祖村が見えた。 ※ 木曽村ではない。

小さな、馬頭観音。 裏の字が、享保と読めた。
※ こういうのを他から持ってきて置いたら、すべての信用を失うかな、と少しだけ・・。


ここにも、石畳。

峠を下りた。

大きな紅葉の木。 カエデの説明。 いつかもこんなの見た。 大丈夫のよう。


旅人が、のどを潤した。 私も、手ですくって飲んだ。

陽のあたる坂道。

上の写真の近くに、下の説明。 ここで、街道が分かれていた。
明治44年に、中央本線の、名古屋と塩尻の間が通った。 中央本線の、西半分。
その時から、高山とか、飛騨の女工たちは、汽車に乗ることが出来た。
でも、それまでは、全部歩いた。
「ああ 野麦峠」の 政井みね が、兄に背負われて野麦峠まで戻ったのは、明治42年。
汽車が走る2年前だから、歩いた。
歩いたルートは、右の図。 ピンクの○は、今いるところ。
※ 野麦峠で、みねが見た飛騨の風景は、昔のままに・・・。 飛騨の匠の、古川の町並み。 他 (2010/6/19)
※ 「あゝ野麦峠」の主人公、政井みねの故郷を歩く ~飛騨市河合町角川~ 他 (2010/6/18)


線路のある風景は、いい。 右が、名古屋方面。


薮原(やぶはら)宿。 昔の面影が、ぽつんぽつんと、残っている。

昔、ここに高い塀があった。 今は、石垣だけ。
塀は、火事のとき、延焼を防いだ。

老舗の雰囲気。 木曽村は、木曽川の源流とある。


この村の人たちは、奈良井宿のように残せばよかったと、思っているのでしょうか。

お六櫛です。 昨日も、ありましたね。

地図があった。 駅の上に、新しく道の駅があった。 今晩はここ、と決めた。


上から見た、薮原駅。

4時前の電車で、奈良井駅に戻った。


奈良井駅。

山の中は、日が沈むのが早い。 それでも、観光客はいた。 今日は、土曜日。

昨日も、太鼓橋を通って、戻った。

今まで通った山道の旧街道は、どこも人は歩いていなかった。
木曽の旧街道は、人気の道。 多くの人に出会った。
【今日の歌】 日本人が歌って、最初に流れた百万本のバラは、下です。 ラジオからです。
歌っているのは、ニーナさんと云う人。 ギターも、彼女。 NHKのロシア語のラジオ講座の中で、歌った。
下の写真の左が、ニーナさん。 右は、昨日載せた、プガチョワさんです。
2人とも、若い時。 プガチョワさんが、日本に来た時に、ニーナさんのお店で撮影。 東京。

※ 百万本のバラについては、以前書きました。 好きな曲なので、再び。
ポイントだけ書いています。。
明日は、加藤登紀子の、百万本のバラ。
【その他】 私は今日、車の鍵(かぎ)を、右手に持っていなかったので、探した。
少しで、気づいた。 さすが私だ。 左手に持っていた。
【道の駅】 木曽川源流の里 きそむら
【明日の予定】 福島宿
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は2位、


気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
コメント
コメントの投稿
トラックバック
https://akkamui.com/tb.php/805-237ae100