頼朝や義経の父は、源 義朝(よしとも)。 義朝には弟がいた、義賢(よしたか)。
義朝は、義賢と合わなかった。 義朝は、義賢を急襲し、殺してしまった。
兄に殺された弟の義賢には、2歳になる子供がいた。 駒王丸。
子供を生かしておくと、いつか復讐される。
義朝は、駒王丸を見つけて、殺すことにした。
その仕事を、家来の、畠山重能(しげよし)に命じた。
重能は、駒王丸を探し出した。 さあ殺そうと、剣を駒王丸に向けた。
しかし、幼い子がしのびなく、躊躇した。 殺せなかった。
駒王丸を、斎藤実盛(さねもり)に託した。 実盛も、義朝の家来。
実盛は、駒王丸を殺さなければならない。
ところが、この実盛、実は、この子供の父である、殺された義賢の家来だったことがある。
その恩を忘れていなかった。
子供を抱いて、密かに、上野(こうずけ)の国を出る。 ※ 現在の群馬県辺り。
向かったのは、木曽の山の中。 木曽谷。
その土地の豪族、中原兼遠(なかはらの かねとう)のもとに届けた。
駒王丸は、助かった。
なぜ、木曽谷に来たのか。
駒王丸の乳母は、兼遠の妻だった。
それを頼って、やってきた。
来たことは、極秘の中で、育てられた。
2歳だった駒王丸は、やがて逞しく成長する。
そして、木曽義仲となる。 (ここまでの文、Wikipedia を参考に)
※ マンガの中の義仲。 女の子は、巴御前。
なお、巴御前(ともえごぜん)は、育ててもらった、兼遠の娘。
今日は、義仲が育った地を、歩く。 巴淵(ともえぶち)へも。
中仙道宮ノ越宿は、木曽町日義にあり、木曽義仲の里。 ※ 昔、木曽谷と呼ばれた地。
木曽義仲の名前は、本来 源義仲で、義経とは従兄弟(いとこ)。
義仲は、この地で旗揚げしたと、言われている。
※ ※ ※ ※
ここ数日、この近辺を歩いている。
宮ノ越宿と云われる所。 住所は、木曽町日義。 ややこしい。
基礎義仲について知っていることは、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破ったこと。
そして、平氏でなく、頼朝や義経の軍に追われ、お終い。
それだけでしょうか。 最後の敵は、平氏ではなかった。
義仲館は、月曜日で閉まっていた。
左は、巴御前。 普通の像でしょうか。 悪くない感じ。 少し、記念撮影みたい。
※ 今まで見てきた、檮原(ゆすはら)の維新の門の像、御宿海岸の月の沙漠の像、などとは違う。
義仲はどこの人間だとなったとき、木曽の日義と言って、問題はないようだ。
だから、木曽義仲と呼ばれる。
今日は、下の地図を、時計回り歩く。 右端から。
徳音寺の前に、歌碑があった。 YouTube にはない。
義仲に対する、人々の想いが分かるかなと思って・・。
※ 上は、こう書いてある。
木曽の松風日義の里に
若き血潮が吹きあげる
平家伐たんと義仲公よ
燃えし精魂今いずこ
治承四年春弥生
若名御前や帰らじの旅 ※ 若名御前は、義仲の母。
神の情けの儚さは
歴史の跡を木曽川端に
一つ葉繁る観音堂
八百余年夢はるか
雨の横吹き若葉が一つ
悲恋に散りし語り草
悠久挽歌ちらちらしびれ
しのぶ昔を川が知る
美濃の哀歌よ地蔵尊
義仲は、天下を取ろうとしたのか。
しかし、頼朝や家康のように、余程 強(したた)かでないと、たいへん。
正面に、徳音寺の山門。 木が邪魔だけど、花が咲いたらこうなる。
今日は、こういうのは、みんな読むことに。
義仲が死んだ後、菩提寺として建てたとある。
本堂。 巴御前の像。 巴御前は、この地の人。
像としていいのか悪いのか、分からない。
巴御前が、どんな人だったのか、彼女の何かが伝わってくるといい。
伝説。 この岩は、巴ヶ淵(ともえがふち)にあった。 ※ 巴淵(ともえぶち)とも、呼ぶ。
巴御前が、巴淵の岩に、馬の蹄(ひづめ)で穴を開けたとある。
本堂の後ろに墓があった。
義仲の墓は、滋賀県大津市馬場の朝日山義仲寺にあるが、ここの墓も認められている。
中央奥が、義仲。 手前、左から2番目が、巴御前。 他は、四天王とか言ってる義仲の家来。
説明。
墓から下を見た。 左に本堂。
上の写真の右のお堂に、義仲の像。 文化財的に、価値のあるものではなく。
お寺に、資料館があった。
義仲や巴御前は人気があるから、後の世に、たくさん描かれる。
巴午前が書いたもの。 本物のよう。
こう書いてあって、その意味も。 むずかしい。
巴御前は、こんな人。
京都の、時代祭りでの、巴御前。
左は、義仲の館跡から見つかったとある。 右は、この寺の和尚が信玄からいただいた、とある。
巴淵に向かった。 中仙道を歩いている。
何だろう、 変形したピーマンのよう。
山里の道。 歩きたくなる道。
花がそよ風に揺れていたら、挨拶してくれてるように・・。
巴淵は、橋の右側です。 橋の向こうから来た。 橋にも、人はいた方がいい。
橋の向こうに、湧き水が。
巴御前は、龍の化身だとある。
巴淵は、1年の中で、今が一番美しい。 深い緑色。
謡曲「巴」のこと。 ※ YouTube にあるのですが、撮影が良くない。
伝説の中に、ほんの少しでも、真実はあるのでしょうか。 気になります。
「 粟津野に 討たれし公 の 霊抱きて 巴の慕情 淵に渦まく 」
※ 粟津野は、琵琶湖のそばの大津市に。 義仲は、ここで死んだ。
橋から、下流を。
5分ほど歩いて、南宮神社。
戦勝祈願したとある。
倶利伽羅峠の戦いで、平氏の大軍を破った時も、ここに来たのか。
更に歩いて、旗挙八幡宮。 この辺りに、義仲の城があったとある。
戦場には、ここから出発と。
※ ここから出発はいいようだが、城は他でないかとの説がある。
樹齢800年の巨木。 義仲が植えたかも知れない。
27歳で挙兵。 亡くなるのは、31歳。 4年間で、歴史に名を残すことになる。
※ 義仲のマンガです。 分かりやすい。 時間のあるときに。
子供のときのは、最初に出てきます。
宮ノ越宿が見える。 向こうに帰る。 昔の面影は、部分的にしか、残っていない。
戻ってきた。 突き当たりに、徳音寺があった。
今日は、木曽義仲と巴御前の里を歩いた。
2人については、何も知らなかった。
少しだけ、分かったでしょうか。
【今日の歌】 百万本のバラは、いろんな人が歌うことになる。 1曲ずつ紹介。
その中で、彼女が歌うのが、いいなと思う。
【道の駅】 木曽福島
【明日の予定】 上松宿の辺りか。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は1位、
旅行全体で2位です。
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義朝は、義賢と合わなかった。 義朝は、義賢を急襲し、殺してしまった。
兄に殺された弟の義賢には、2歳になる子供がいた。 駒王丸。
子供を生かしておくと、いつか復讐される。
義朝は、駒王丸を見つけて、殺すことにした。
その仕事を、家来の、畠山重能(しげよし)に命じた。
重能は、駒王丸を探し出した。 さあ殺そうと、剣を駒王丸に向けた。
しかし、幼い子がしのびなく、躊躇した。 殺せなかった。
駒王丸を、斎藤実盛(さねもり)に託した。 実盛も、義朝の家来。
実盛は、駒王丸を殺さなければならない。
ところが、この実盛、実は、この子供の父である、殺された義賢の家来だったことがある。
その恩を忘れていなかった。
子供を抱いて、密かに、上野(こうずけ)の国を出る。 ※ 現在の群馬県辺り。
向かったのは、木曽の山の中。 木曽谷。
その土地の豪族、中原兼遠(なかはらの かねとう)のもとに届けた。
駒王丸は、助かった。
なぜ、木曽谷に来たのか。
駒王丸の乳母は、兼遠の妻だった。
それを頼って、やってきた。
来たことは、極秘の中で、育てられた。
2歳だった駒王丸は、やがて逞しく成長する。
そして、木曽義仲となる。 (ここまでの文、Wikipedia を参考に)
※ マンガの中の義仲。 女の子は、巴御前。

なお、巴御前(ともえごぜん)は、育ててもらった、兼遠の娘。
今日は、義仲が育った地を、歩く。 巴淵(ともえぶち)へも。
中仙道宮ノ越宿は、木曽町日義にあり、木曽義仲の里。 ※ 昔、木曽谷と呼ばれた地。
木曽義仲の名前は、本来 源義仲で、義経とは従兄弟(いとこ)。
義仲は、この地で旗揚げしたと、言われている。
※ ※ ※ ※
ここ数日、この近辺を歩いている。
宮ノ越宿と云われる所。 住所は、木曽町日義。 ややこしい。
基礎義仲について知っていることは、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破ったこと。
そして、平氏でなく、頼朝や義経の軍に追われ、お終い。
それだけでしょうか。 最後の敵は、平氏ではなかった。
義仲館は、月曜日で閉まっていた。

左は、巴御前。 普通の像でしょうか。 悪くない感じ。 少し、記念撮影みたい。
※ 今まで見てきた、檮原(ゆすはら)の維新の門の像、御宿海岸の月の沙漠の像、などとは違う。

義仲はどこの人間だとなったとき、木曽の日義と言って、問題はないようだ。
だから、木曽義仲と呼ばれる。
今日は、下の地図を、時計回り歩く。 右端から。

徳音寺の前に、歌碑があった。 YouTube にはない。
義仲に対する、人々の想いが分かるかなと思って・・。

※ 上は、こう書いてある。
木曽の松風日義の里に
若き血潮が吹きあげる
平家伐たんと義仲公よ
燃えし精魂今いずこ
治承四年春弥生
若名御前や帰らじの旅 ※ 若名御前は、義仲の母。
神の情けの儚さは
歴史の跡を木曽川端に
一つ葉繁る観音堂
八百余年夢はるか
雨の横吹き若葉が一つ
悲恋に散りし語り草
悠久挽歌ちらちらしびれ
しのぶ昔を川が知る
美濃の哀歌よ地蔵尊
義仲は、天下を取ろうとしたのか。
しかし、頼朝や家康のように、余程 強(したた)かでないと、たいへん。
正面に、徳音寺の山門。 木が邪魔だけど、花が咲いたらこうなる。

今日は、こういうのは、みんな読むことに。

義仲が死んだ後、菩提寺として建てたとある。

本堂。 巴御前の像。 巴御前は、この地の人。

像としていいのか悪いのか、分からない。
巴御前が、どんな人だったのか、彼女の何かが伝わってくるといい。

伝説。 この岩は、巴ヶ淵(ともえがふち)にあった。 ※ 巴淵(ともえぶち)とも、呼ぶ。
巴御前が、巴淵の岩に、馬の蹄(ひづめ)で穴を開けたとある。

本堂の後ろに墓があった。
義仲の墓は、滋賀県大津市馬場の朝日山義仲寺にあるが、ここの墓も認められている。

中央奥が、義仲。 手前、左から2番目が、巴御前。 他は、四天王とか言ってる義仲の家来。

説明。


墓から下を見た。 左に本堂。

上の写真の右のお堂に、義仲の像。 文化財的に、価値のあるものではなく。

お寺に、資料館があった。


義仲や巴御前は人気があるから、後の世に、たくさん描かれる。


巴午前が書いたもの。 本物のよう。

こう書いてあって、その意味も。 むずかしい。


巴御前は、こんな人。

京都の、時代祭りでの、巴御前。
左は、義仲の館跡から見つかったとある。 右は、この寺の和尚が信玄からいただいた、とある。


巴淵に向かった。 中仙道を歩いている。

何だろう、 変形したピーマンのよう。

山里の道。 歩きたくなる道。
花がそよ風に揺れていたら、挨拶してくれてるように・・。

巴淵は、橋の右側です。 橋の向こうから来た。 橋にも、人はいた方がいい。

橋の向こうに、湧き水が。
巴御前は、龍の化身だとある。


巴淵は、1年の中で、今が一番美しい。 深い緑色。

謡曲「巴」のこと。 ※ YouTube にあるのですが、撮影が良くない。

伝説の中に、ほんの少しでも、真実はあるのでしょうか。 気になります。


「 粟津野に 討たれし公 の 霊抱きて 巴の慕情 淵に渦まく 」
※ 粟津野は、琵琶湖のそばの大津市に。 義仲は、ここで死んだ。

橋から、下流を。

5分ほど歩いて、南宮神社。

戦勝祈願したとある。
倶利伽羅峠の戦いで、平氏の大軍を破った時も、ここに来たのか。

更に歩いて、旗挙八幡宮。 この辺りに、義仲の城があったとある。
戦場には、ここから出発と。
※ ここから出発はいいようだが、城は他でないかとの説がある。

樹齢800年の巨木。 義仲が植えたかも知れない。

27歳で挙兵。 亡くなるのは、31歳。 4年間で、歴史に名を残すことになる。

※ 義仲のマンガです。 分かりやすい。 時間のあるときに。
子供のときのは、最初に出てきます。
宮ノ越宿が見える。 向こうに帰る。 昔の面影は、部分的にしか、残っていない。

戻ってきた。 突き当たりに、徳音寺があった。

今日は、木曽義仲と巴御前の里を歩いた。
2人については、何も知らなかった。
少しだけ、分かったでしょうか。
【今日の歌】 百万本のバラは、いろんな人が歌うことになる。 1曲ずつ紹介。
その中で、彼女が歌うのが、いいなと思う。
【道の駅】 木曽福島
【明日の予定】 上松宿の辺りか。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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