とってもよく似ています。 不思議です。
まず聴いてください。 歌詞を見ながら。
下は、五木の子守唄。
下の歌詞は、福連木の子守唄。 ※ ふくれぎのこもりうた
※ 写真は、天草市役所 天草支所 福連木出張所 でいただいた、パンフレットを撮影。
Wikipediaでは、根拠は示していませんが、福連木の子守唄の方が先にできた、と言っています。
子守唄の里、福連木を歩いてみました。
美味しい豆腐も、ありました。
☆ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
※ ※ ※ ※
停泊していた、下田の港。 橋は、下田大橋。
下の川は、下津深江川。
これから行く福連木は、この川の上流にある。
右は、丘の上から、下田温泉の街。 白鷺館の温泉は、右の方。 見えなかった。
市街地を通り過ぎて、福連木子守唄公園に着いた。
公園には遊具などが。
毎年11月に、「子守唄&童謡まつり」が開かれる。
遊歩道もある。 公園の横を県道が通っていて、7㌔程行くと、先日見た轟橋がある。
写真を撮りながら、中心街に向かった。
途中で、子守唄については、支所の出張所に行ったら分かるかも知れないと、教えていただいた。
時々、福連木子守唄の里、とある。
静かな山里。 石垣が目立つ。
古いけど、大きな家。 建てた当時の豪華さは、今の家は適(かな)わない。
大根が似合う。
※ 昔は単独で、天草町(あまくさまち)。 今は、天草市天草町。
合併しても、天草町の名前を残した。 こういうのが、いい。
親しみある町名がそのままだし、看板がそのままでも、不自然でない。
どうして、福連木に、そして五木に、子守唄は生まれたのでしょう。
※ ここから先は、支所の出張所で教えていただいたこと、パンフレット、ネットの情報を元に、書いています。
福連木と五木には、共通する貧しさがあった。
昔は、どこも貧しかったが、それにプラスする貧しさの理由があった。 ※ 理由は、後ほど。
山の中に、豆腐のお店が。
小さなお店。 四角い豆腐と、寄せ豆腐を買った。 どちらも、200円。 おからは、おまけ。
晩に食べましたよ。 いい味。
豆腐は最初、塩で。 その後は、生醤油。 醤油も豆腐も、大豆から。 親戚。 合う。
子供たちは10歳になったら、貧しさのために、他所(よそ)に奉公に出る。
1日いっぱい働かされて、粗末な食べ物だけ。
仕事が辛いから、唄を歌った。
それは、子守唄といっても、子供を寝かしつける唄ではなかった。
自分をなぐさめる唄に、なってしまった。
福連木の小さな中心街。 小学校があります。 ※ 今年の3月に、閉校。
では、どこに奉公に行ったか。
福連木の子供たちは、島を出て、八代とか人吉。
ちなみに、五木の子供たちは、五木か八代か人吉が中心。
奉公先で歌われたのが、自分の故郷に戻ってきて、歌い継がれた。
八代や人吉に、両方からの子供がいた。 ※ 他からもいたと思う。
そのために、福連木の子守唄と、五木の子守唄が、似ることになる。
神社。 斜面全部が石垣。
福連木の人達の生活は、江戸時代が終われば、ある程度良くなる。(この理由も後ほど)
※ 本当に楽になるのは、戦後の農地改革の後ですね。
下のように、立派な石垣を作ることができたのは、いつ頃でしょう。
貧しい時代に、もう作っていたのか。
正面に、小学校が見えます。
この後、支所の出張所で、天草市役所の方から、福連木の子守唄について、教えていただいた。
その内容を中心に、ブログは、書いています。
福連木の子守唄のCDはあって、希望者に販売していたのだが、ちょうど無くなったところだった。
CDについては、新たに作って、出来たら連絡をいただけることになった。
内容は、地元のおばあちゃんが歌ったのと、子供たちが歌ったもの。
出張所の前の風景。 ※ 最近、逆光の写真が好き。 暖かさを感じるので。
※ ここからの写真も、福連木出張上でいただいたパンフレットを撮影。
福連木の森で採れた樫の木が、槍(やり)の柄(え)の部分に向いていた、とある。
樫の木は、こんな木。(ネットの写真) 珍しい木ではない。
字を見て分かる通り、堅い木。 頑丈なため、槍の柄(え)の部分に使われた。
※ 樫の木は、他に、スコップや斧(おの)の柄、太鼓のバチに向いているそう。
福連木の樫が特に良かったという。 他より堅かったということか。
堅さだけでない特性があったのか、その辺りは、分からない。
とにかく、いい樫の木があるということで、山は、幕府に奪われてしまった。
自分達の山ではなくなった。
炭焼きはできない、木材としての木を、切り出せない。
福連木の村は、他の村の貧しさとは、程度が違ってしまった。
福連木の人達の生活が大変になるのは、上の事情で、江戸時代から。
五木の人たちが苦しくなるのは、鎌倉時代から。
五家荘(ごかのしょう)に平氏一族がいて、その見張りのために、武士が五木に入ってきた。
土地から農耕の道具まで、全てが、武士のものになった。
支配は、末代までずっと続いた。
五木の貧しさも、他の村とは違った。 ※ ここまで、 Wikipedia による。
※ 追記 ただ、上の文については、伝承の上に積み重ねている考え。
「三十三人衆」と呼ばれる地主層は確かにいたが、五家荘と関係あるかは、はっきりしていない。
五家荘との関係は、大義名分として、作ったかも知れない。
そんな中、江戸時代の終わり頃、奉公先で歌が生まれ、歌い継がれたと、下にある。
どちらが先かを知りたいが、証拠が見つからない。
歌詞が、驚くほど似ていることは分かったが、メロディはどうでしょう。
普通に聴いたら、別だなと感じますね。
支所の出張上で、あばあちゃんが歌うのを聞いたとき、ある部分が似ている、と感じた。
でも、下のを聴いたら、どこが似ているか、難しい。
メロディの特徴は、五木の子守唄は、優れたメロディ。 良さが、分かりやすい。
そのために、全国に知られることになる。
福連木の子守唄は、素朴で何度も聴くうちに、良さが分かってくる。
メロディが単純でないとも、言えそう。
山は、官山(かんざん)と呼ぶようになった。
下は、別の形の説明。 明日は、官山である角山(かどやま)に登る。
下には、4代将軍綱吉の頃から、とある。 江戸時代は、まだ200年続く。
福連木の子守唄を、さらに全国に知ってもらうためには、どうしたらいいでしょう。
まず、質の高い動画を作ることでしょうか。
おばあちゃんと、子供たちのと。 あと、誰か上手に歌える人。
おばあちゃんの歌は、福連木の風景をバックに。
人に感動を与えるだけの、優れた唄と演奏が必要になります。
それを、天草市のHPと、YouTubeに。 CDをつくるかも、検討。
春には、小学校が閉校します。
どのように歌い継いでいくかも、大事になります。
また、旅で福連木に来た人がどこかで聴けたら、いいですね。
福連木の子守唄の歌碑の前に立つと、唄が流れるように、とか。
子守唄を残す価値は何なのか、それを整理するのは、とっても大事。
はっきりすると、地域の人たちの気持ちが、1つに強くまとまります。
五木の子守歌との関係は、どっちが先か、はっきりしない。
ただ、奉公先の地で、お互いが影響し合って、それぞれの歌詞が生まれた。
どちらも、数え切れないほどの歌詞を持っている。
メロディに関しては、作り出すのは、難しい。
どちらの子守唄にも、それに貢献した人が、必ずいますね。
基本がまず出来た。 基本の良さを残しながら、変化していった。
そんな風に、考えます。
福連木の子守唄は、哀愁ただよう、そして、切なさが伝わる子守唄です。
いい唄です。
※ お世話になった支所の出張所の方々に、感謝します。
【その他】 五木の子守歌では、私は、山口淑子が歌っているのが好きです。
ブログの最初に載せた曲です。
彼女は、子供になったつもりで歌ってはいないんですね。
辛い思いをしている子供たちを、少し離れたところから見ている。
そうして、子供たちの心情をくみとって、歌っているんですね。
時代の悲しさまで、伝わってきます。
【関連ブログ】
五木の子守歌 他 (5月10日 晩)
※ 美空ひばりは、『哀愁波止場』の中に、五木の子守歌の一部を入れている。
五木の子守歌を最初に歌って世に出したのは、音丸。 (YouTubeにあります)
ひばりは、このことを知っており、音丸にはお世話になっていた。
彼女は、四国に巡業に行って、バス事故に遭った。 この巡業は、乙丸にくっついていったもの。
日本一の大杉と、美空ひばりのバス事故 ~大豊町~ 他 (2011/5/27)
【停泊場所】 福連木子守唄公園
【明日の予定】 官山(角山)に登山道がある。 行ってみようかと。
轟滝にも。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行 2位、
旅行全体 3位です。
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まず聴いてください。 歌詞を見ながら。
下は、五木の子守唄。
下の歌詞は、福連木の子守唄。 ※ ふくれぎのこもりうた
※ 写真は、天草市役所 天草支所 福連木出張所 でいただいた、パンフレットを撮影。

Wikipediaでは、根拠は示していませんが、福連木の子守唄の方が先にできた、と言っています。
子守唄の里、福連木を歩いてみました。
美味しい豆腐も、ありました。
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※ ※ ※ ※
停泊していた、下田の港。 橋は、下田大橋。
下の川は、下津深江川。
これから行く福連木は、この川の上流にある。
右は、丘の上から、下田温泉の街。 白鷺館の温泉は、右の方。 見えなかった。


市街地を通り過ぎて、福連木子守唄公園に着いた。
公園には遊具などが。

毎年11月に、「子守唄&童謡まつり」が開かれる。


遊歩道もある。 公園の横を県道が通っていて、7㌔程行くと、先日見た轟橋がある。

写真を撮りながら、中心街に向かった。
途中で、子守唄については、支所の出張所に行ったら分かるかも知れないと、教えていただいた。
時々、福連木子守唄の里、とある。

静かな山里。 石垣が目立つ。

古いけど、大きな家。 建てた当時の豪華さは、今の家は適(かな)わない。
大根が似合う。

※ 昔は単独で、天草町(あまくさまち)。 今は、天草市天草町。
合併しても、天草町の名前を残した。 こういうのが、いい。
親しみある町名がそのままだし、看板がそのままでも、不自然でない。
どうして、福連木に、そして五木に、子守唄は生まれたのでしょう。
※ ここから先は、支所の出張所で教えていただいたこと、パンフレット、ネットの情報を元に、書いています。

福連木と五木には、共通する貧しさがあった。
昔は、どこも貧しかったが、それにプラスする貧しさの理由があった。 ※ 理由は、後ほど。
山の中に、豆腐のお店が。

小さなお店。 四角い豆腐と、寄せ豆腐を買った。 どちらも、200円。 おからは、おまけ。
晩に食べましたよ。 いい味。
豆腐は最初、塩で。 その後は、生醤油。 醤油も豆腐も、大豆から。 親戚。 合う。




子供たちは10歳になったら、貧しさのために、他所(よそ)に奉公に出る。
1日いっぱい働かされて、粗末な食べ物だけ。
仕事が辛いから、唄を歌った。
それは、子守唄といっても、子供を寝かしつける唄ではなかった。
自分をなぐさめる唄に、なってしまった。
福連木の小さな中心街。 小学校があります。 ※ 今年の3月に、閉校。

では、どこに奉公に行ったか。
福連木の子供たちは、島を出て、八代とか人吉。
ちなみに、五木の子供たちは、五木か八代か人吉が中心。
奉公先で歌われたのが、自分の故郷に戻ってきて、歌い継がれた。
八代や人吉に、両方からの子供がいた。 ※ 他からもいたと思う。
そのために、福連木の子守唄と、五木の子守唄が、似ることになる。
神社。 斜面全部が石垣。

福連木の人達の生活は、江戸時代が終われば、ある程度良くなる。(この理由も後ほど)
※ 本当に楽になるのは、戦後の農地改革の後ですね。
下のように、立派な石垣を作ることができたのは、いつ頃でしょう。
貧しい時代に、もう作っていたのか。

正面に、小学校が見えます。

この後、支所の出張所で、天草市役所の方から、福連木の子守唄について、教えていただいた。
その内容を中心に、ブログは、書いています。
福連木の子守唄のCDはあって、希望者に販売していたのだが、ちょうど無くなったところだった。
CDについては、新たに作って、出来たら連絡をいただけることになった。
内容は、地元のおばあちゃんが歌ったのと、子供たちが歌ったもの。
出張所の前の風景。 ※ 最近、逆光の写真が好き。 暖かさを感じるので。

※ ここからの写真も、福連木出張上でいただいたパンフレットを撮影。
福連木の森で採れた樫の木が、槍(やり)の柄(え)の部分に向いていた、とある。
樫の木は、こんな木。(ネットの写真) 珍しい木ではない。
字を見て分かる通り、堅い木。 頑丈なため、槍の柄(え)の部分に使われた。
※ 樫の木は、他に、スコップや斧(おの)の柄、太鼓のバチに向いているそう。
福連木の樫が特に良かったという。 他より堅かったということか。
堅さだけでない特性があったのか、その辺りは、分からない。
とにかく、いい樫の木があるということで、山は、幕府に奪われてしまった。
自分達の山ではなくなった。
炭焼きはできない、木材としての木を、切り出せない。
福連木の村は、他の村の貧しさとは、程度が違ってしまった。

福連木の人達の生活が大変になるのは、上の事情で、江戸時代から。
五木の人たちが苦しくなるのは、鎌倉時代から。
五家荘(ごかのしょう)に平氏一族がいて、その見張りのために、武士が五木に入ってきた。
土地から農耕の道具まで、全てが、武士のものになった。
支配は、末代までずっと続いた。
五木の貧しさも、他の村とは違った。 ※ ここまで、 Wikipedia による。
※ 追記 ただ、上の文については、伝承の上に積み重ねている考え。
「三十三人衆」と呼ばれる地主層は確かにいたが、五家荘と関係あるかは、はっきりしていない。
五家荘との関係は、大義名分として、作ったかも知れない。
そんな中、江戸時代の終わり頃、奉公先で歌が生まれ、歌い継がれたと、下にある。

どちらが先かを知りたいが、証拠が見つからない。
歌詞が、驚くほど似ていることは分かったが、メロディはどうでしょう。
普通に聴いたら、別だなと感じますね。
支所の出張上で、あばあちゃんが歌うのを聞いたとき、ある部分が似ている、と感じた。
でも、下のを聴いたら、どこが似ているか、難しい。
メロディの特徴は、五木の子守唄は、優れたメロディ。 良さが、分かりやすい。
そのために、全国に知られることになる。
福連木の子守唄は、素朴で何度も聴くうちに、良さが分かってくる。
メロディが単純でないとも、言えそう。
山は、官山(かんざん)と呼ぶようになった。

下は、別の形の説明。 明日は、官山である角山(かどやま)に登る。

下には、4代将軍綱吉の頃から、とある。 江戸時代は、まだ200年続く。

福連木の子守唄を、さらに全国に知ってもらうためには、どうしたらいいでしょう。
まず、質の高い動画を作ることでしょうか。
おばあちゃんと、子供たちのと。 あと、誰か上手に歌える人。
おばあちゃんの歌は、福連木の風景をバックに。
人に感動を与えるだけの、優れた唄と演奏が必要になります。
それを、天草市のHPと、YouTubeに。 CDをつくるかも、検討。
春には、小学校が閉校します。
どのように歌い継いでいくかも、大事になります。
また、旅で福連木に来た人がどこかで聴けたら、いいですね。
福連木の子守唄の歌碑の前に立つと、唄が流れるように、とか。
子守唄を残す価値は何なのか、それを整理するのは、とっても大事。
はっきりすると、地域の人たちの気持ちが、1つに強くまとまります。
五木の子守歌との関係は、どっちが先か、はっきりしない。
ただ、奉公先の地で、お互いが影響し合って、それぞれの歌詞が生まれた。
どちらも、数え切れないほどの歌詞を持っている。
メロディに関しては、作り出すのは、難しい。
どちらの子守唄にも、それに貢献した人が、必ずいますね。
基本がまず出来た。 基本の良さを残しながら、変化していった。
そんな風に、考えます。
福連木の子守唄は、哀愁ただよう、そして、切なさが伝わる子守唄です。
いい唄です。
※ お世話になった支所の出張所の方々に、感謝します。
【その他】 五木の子守歌では、私は、山口淑子が歌っているのが好きです。
ブログの最初に載せた曲です。
彼女は、子供になったつもりで歌ってはいないんですね。
辛い思いをしている子供たちを、少し離れたところから見ている。
そうして、子供たちの心情をくみとって、歌っているんですね。
時代の悲しさまで、伝わってきます。
【関連ブログ】
五木の子守歌 他 (5月10日 晩)
※ 美空ひばりは、『哀愁波止場』の中に、五木の子守歌の一部を入れている。
五木の子守歌を最初に歌って世に出したのは、音丸。 (YouTubeにあります)
ひばりは、このことを知っており、音丸にはお世話になっていた。
彼女は、四国に巡業に行って、バス事故に遭った。 この巡業は、乙丸にくっついていったもの。
日本一の大杉と、美空ひばりのバス事故 ~大豊町~ 他 (2011/5/27)
【停泊場所】 福連木子守唄公園
【明日の予定】 官山(角山)に登山道がある。 行ってみようかと。
轟滝にも。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
福連木の槍については、司馬遼太郎の「国盗り物語」の中に述べられてます。司馬遼太郎の本はおもしろいですが、情報収集力も半端ではないと痛感します。
子守唄
福連木の子守唄を初めて知りました。五木の子守唄とそっくりなのに驚きました。どちらも、奉公にでて働く子どもの切なさが胸にしみます。
Re: 子守唄
1つの町に、奉公の子が集まってくる。
メロディや詩が、混ざり合うんですね。
引き継いで、大事に育てた地域の歌が、今の時代に残ったのでしょうね。
福連木はある事情で、特に生活はきびしかったようです。
天草には、悲しい歴史があります。
メロディや詩が、混ざり合うんですね。
引き継いで、大事に育てた地域の歌が、今の時代に残ったのでしょうね。
福連木はある事情で、特に生活はきびしかったようです。
天草には、悲しい歴史があります。
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